
今度は私共のホームページにアクセス頂き、まことに有難うございます。どうかお気楽に古文書をお楽しみ頂きたいと存じます。
当会は「郡山」を名乗っておりますが、福島の「郡山」ではなく、大和の「郡山」ですので、お間違いのなき様お願いいたします。さて当地大和郡山市は、現在は人口八万余りの穏やかな小都市ですが、かっては南都奈良は勿論、京・大坂を見据えた要衝の地として、大和大納言(豊臣秀長)百万石の居城であり、また江戸時代を通じて、十数万石クラスの有力譜代大名が城を構えていた土地でもあります。城主は水野・奥平松平・本多・藤井松平・本多と替りますが、享保九(1724)年に柳澤松平家の吉里が、甲府から大和・海津(北近江)・四日市十五万石余で転封となり、伊信(信鴻)・保光・保泰・保興・保申と直系継承のうえで明治維新を迎えております。
十五万石余の領地は、金沢・鹿児島・仙台等の外様雄藩や、御三家等とは比べるべくも有りませんが、譜代大名百五十家あまりの中では彦根(井伊)・庄内(酒井)に次ぐ第三位、準国主と言う地位にあり、諸大名二百七十家余の中でも二十七位で、まあ大大名と言っても過言ではないでしょう。
今回掲載する阿部家文書(のごく一部)は、収蔵の江戸東京博物館のご厚意により、数か月の期間をかけて複写させて頂いたものですが、柳澤家江戸藩邸で、藩主の御供廻りの現場責任者(御簾役)を代々務めた中級武士、阿部家の御供記録等からなります。
江戸に於ける藩主の登城・挨拶回りの規式や状況が克明に記録されており、更に江戸時代を通じて唯一行われた奥方(真華院)の帰邑旅行や、最後の藩主(保申)の入府旅行の記録等は、貴重なものだと思っています。
又、併せて掲載した大和郡山市収蔵の豊田家文書は、概ね郡山藩の番頭クラスの上士であった豊田家に伝わったものですが、本編は家老クラスで幕末の藩を統括した柳沢五郎右衛門(薮田隼人)の御用記録を、一部割愛の上で書写したと思われるもので、割愛された部分があるにせよ鳥羽・伏見の戦乱前後の有様を伝える貴重なものとして収録させて頂きました。
これらは、もとより素人の拙い翻刻や解説では有りますが、ご笑覧頂ければ幸いに存じます。
2023.10
p.s. 今後、新たな文書を追加掲載することも計画しておりますので、お暇な折にでもアクセスをお願い致します。
① 通読の便宜のため読点及び並列点を適宜付した。
② 漢字は原則として新字体としたが、固有名詞及び特別の意味を持つ文字等は原文のままとした。
③ 変体仮名は原則として平仮名としたが、一部は原文のまま小活字とした。
④ 近世文書で慣例的に使用されている「壬(閏)」「百性」「ゟ(より)」等は原文のままとした。
⑤ 分とあるのは、柳沢史料集成収録の「分限帳」を示している。